私は1987年1月からの4年半、建設会社職員としてトヨタのケンタッキー工場の新築工事のためケンタッキー州レキシントン市に駐在しました。長男の悠馬もレキシントンの生まれです。トヨタにとって、輸出が米国との貿易摩擦の火種となり、自主規制ではかわしきれなくなった。残された道は現地生産しかないと言われながら、品質を考えたら簡単に乗り込めるものではないという状況が続いていたわけです。ところが、いつの間にか日産、ホンダに現地生産の先を越され、いささか焦ってのアメリカ進出初工場でした。あのケンタッキー工場の車の生産台数は、2005年9月5日のHPで6,009,787台だそうです。まったく凄いものです。でも、ケンタッキーで産まれた息子の悠馬が高校生だからなぁと、妙に納得したりします。
自動車工場をやっていたせいか、車のトラブルの数々が印象に残っています。写真は、お隣のオハイオ州トロイで松下電子の工場をやっていた鈴木洋次氏に誘われて航空ショーを見に行ったときの写真です。デイトンはデルタ航空の本拠地でもあるし、空軍基地もある。空軍基地がこの日は開放され、アクロバット飛行などを一般人にお見せする日だったようです。悠馬が1歳でしょうか、まだ乳母車に乗っていましたが、ご機嫌でジェット機の轟音と飛行を眺めていたような気がします。
さて、このオハイオからの帰りに順調にドライブしていました。州境のドライブインに寄ってすぐ、車が何となく力が抜けたような感じになり、ハンドルが利かなくなり、フリーウェーの脇にパニクリながら停車しました。なんだ?なにごとだ?計器を見ていくと、燃料がempty。ワーォ、さっきドライブインを出たばかり、便所に行ってきただけだなんて、自己嫌悪に陥るもいいところです。真夏の太陽ぎらぎらなのに、燃料がないのだから当然クーラーは動くはずない。ウ~ン、息子がまだ小さいし、脱水症にでもなったらどうしよう。とにかく、AAA(日本のJAFみたいなもの)に電話をかけるにはと考える。・・・・・・・・・・ドライブインを出たばかりだけど、歩いたら一時間くらいは必要かもしれない。民家はないかと見回すと、だいぶ遠いが幸いなことに家が見えた。驚いたのは、何故かフリーウェーの両脇に見渡す限り鉄条網が張ってある。アメリカ広しといえど、鉄条網つきフリーウェーなんて他に見たことがない。どうしたらいいんだ! 絶望!
あせりながらドライブイン方向に歩いていくと、電信柱が鉄条網のすぐ脇にあるのを見つけ、ひらめきました。そう、なんとこの電信柱をよじ登り、鉄条網を乗り越え向こう側に降りることにしたのです。失敗して鉄条網にひっかかり、ぶら下がることにでもなったら、さぞや痛くてぶざまだろうな、国辱ものだと心配しながらの大冒険でした。無事反対側におりて民家にかけこんで、電話を使わしてくれるよう頼むと、自分のところにもガソリンがあると小分けしてくれ、トラックに私を乗せて、止まっている車までいきガソリンを給油してくれました。本当にみっともないことにならなくて良かったと安堵するとともに、アメリカ人の親切心・心の広さにひたすら感謝の一日でした。
私のアメリカ生活は車のトラブルとともにあった。そもそも、留学でアメリカに渡った時点で実は免許証を持っていなかった。つまり、運転の初体験の地はアメリカだったんです。そんな私が購入したのが、7年物の中古フォードのグラナダ。最初はすぐに傷をつけたりするから中古を買うもんだみたいな話をきいていたし、お金もないし、日本に帰る日本人から購入するのが割安と教えられていてお手頃な選択だったわけです。しかし、これがとんでもない車で年がら年中、故障ばかり、スタートさせてエンジンが動き出してみるまでは本当に動くかどうかあてにならない車でした。試験の日には、必ず地下鉄で行くというオプションを残せるように学校に行く時間を相当早めにしとかなければいけない状態でした。いつも車が動かない、修理屋に持っていくんだと騒いでいる私をみて、アパートの管理人(彼はユダヤ人)が言いました。「おまえ、どうして日本車にしないんだ? FORDてなんの意味か知ってるか?」「FORDてのはなあ、FIX OR REPAIR DAILYなのさ」私にしてみれば、「日本車の品質が優れているのなんか知っとるわい。金さえあれば日本車に買い替えとるワ、しかし、うまいこと言うなあ」と唇を噛んだ次第でした。
FORDのトラブルに悩む私にも留学期間の終わりが近づき片付けモードになってきた頃に、荷物を送り返すなというFAXが入り、やがてケンタッキー行きの電話がはいりました。KYに行く前ののんびりした留学中最後の旅行としてバーモントにスキーにでかけましたが、そこの宿の親父と話をしていると仕事の話になってこれからKYにトヨタの工場を作りに行くんだという話しをしました。彼が言うには、「俺は日本車のフアンだ。けどアメリカで作ったトヨタなんて信用できんないから買わない」と言っていました。これも、なるほどなであり、アメリカで品質の日本車が保てるのかなと心配した覚えがあります。KYへの赴任は、そのFORDでNYから700マイルくらいを走っていきました。いつ止まるか不安なので、食糧・水を積んだり、毛布を積んだりして2月のアパラチア山脈越えをして、KYの緩いwinding roadに入ってきた時には本当にホッとしました。冬の山道で止まってしまったら、他の車なんてなかなか通らないから死んでしまうかもしれないという緊張感がありました。
KYに入ってから、カローラを新車で買いました。止まってしまう心配を全くせずに車に乗れるのはなんと快適なことか。新車と7年物という違いは割り引く必要があるものの、日本車が売れているのがわかる気がしました。しかし、その品質の日本車も燃料を切らしてしまえばどうしようもないのが先のオハイオ帰りのトラブルでした。いかなトヨタ車でもアホのめんどうまではみられないというところでしょうか。仕事でも、赴任者が着く都度、所長にはクレシーダ、所長代理にはカムリ、それ以外はカローラを買って、たぶん一時は60台くらいのめんどうをみていました。故障はほとんどなく、問題はいつも酒を飲んでぶつけた、雪が降って事故った、どこに置いてきたかわからなくなったというものでした。修理屋に運ぶことや、保険手続きをすることに追われ、全損の車もでましたが、あんなに酒を飲んで走っていたのに、死んだり、大怪我をしたりした人間が一人もでなかったのは本当にラッキーでした。私は、自分が購入した60台からの車をまた売って帰ってきました。建設業の宿命とはいえ、工事が終われば去る建設会社大林組と、営々と残るトヨタさんとの対照を思って寂しさを感じたものでした。その工場が2005年、とうとう6百万台を超える車を世に送り出したわけです。我々の活動の痕跡はあの工場にしか残っていません。しかし、今なお力強く育ってトヨタのGM追撃を支えているKY工場は、我々建設会社の人間にとっても誇りと懐かしさの塊そのものなのです。
金井章男 2005年