ホキ美術館の創立者・保木将夫さんが亡くなりました
あすみが丘4丁目 武山高之
7月初め、ホギメディカル社長・保木潤一さんからホギメディカル創始者で名誉会長の「保木将夫お別れ会」のご案内が届きました。
6月10日に89歳で亡くなった保木将夫さんのお別れ会を帝国ホテルで行うということでした。コロナ禍のことで参加はご遠慮するとの返信を出しました。
保木将夫さんは我々あすみが丘の住民にとっては、ホキ美術館の創立者です。保木さんは、美術館を通じて、あすみが丘の文化向上に大きな貢献をされました。また、ホキ美術館のあるあすみが丘として、全国的に知られるようになり、あすみが丘の不動産価値も上がったように思います。ここに、そのあすみが丘の住民の一人として、追悼の言葉を書かして頂きます。
私は保木将夫さんと親しくさせて頂いていました。まだ、ホキ美術館が開館する前に、ワンハンドレッドヒルズのご自宅を年に一度近隣の人のために開放されて、所蔵の絵画を見せて頂いていました。
ある時、生島浩という絵描きさんの若い女性像の前で立ち止まっていました。超写実主義の細緻な筆で書かれた、まなざし・指先、窓から差し込む光をうっとりと眺めていました。たまたま保木さんが隣におられ、「いい絵ですね。何かフェルメールを感じますが」と小声で話しかけました。すると、「分かりますか。この画伯は海外でフェルメールの修復をされていたのですよ」と小声で語りかけてこられました。
そうです。ホキ美術館の人物画は静かな雰囲気で、人間の内面を表現しているような絵が多いのです。大きな声での会話は禁物です。私は、その時まで、生島浩画伯を知りませんでしたが、それから彼の絵が好きになりました。
その時に、昭和の森近くに美術館を設立する計画もお聞きしました。
「美術館をお造りならば、ぜひ上等のレストランを入れて下さい」というと、新橋からいいイタリアンのシェフを呼んでくる計画だとのことでした。その後、近所の知り合い三組の夫婦で忘年会をしたことがあります。
美術館が開かれた後も、よく美術館の入り口に立っておられ、お話をする機会がありました。東日本大震災の時も耐えて、所蔵品の痛みもなかった《片持ち梁》のユニークな構造について、建設会社選定のご苦労もお聞きました。
残念だったことは、台風の大雨で地下倉庫が浸水し、大きな損害を受けられたことです。しかし、その時もさすが一流の事業家だと感心したのは、閉館中に所蔵品の全国巡回展示をされました。それを見た岡山や高知の知人から「あすみが丘の絵を見ましたよ。いつも見れていいですね」という連絡を受けました。災害もあすみが丘のPRの機会にされていました。
保木さんは病院で使う不織布製品で成功され、ホギメディカルを東証一部上場の会社にされた方です。私は長年合成繊維会社で新製品の研究開発の仕事をしていて、不織布のこともよく知っており、話が合いました。
保木さんはあすみが丘を大変愛した方だとお見受けしました。ときどき、創造の杜を散歩しているのにお会いしてお話をしました。床屋さんも近所を贔屓にされていました。また、サマーフェスティバルでは、いつも多額の寄付を頂いていました。
あすみが丘に住む若い画家や全国の超写実主義の若い画家の作品を買い上げ、支援されていました。
今でも美術館に行けば、野田弘志画伯の描いた保木将夫さんの肖像画にお会いできるでしょう。
野田弘志画伯は上皇ご夫妻の肖像画を描かれ、宮内庁に収められています。ホキ美術館には、保木将夫さんのほかに、詩人・谷川俊太郎さんとノーベル賞化学者・野依良治さんのものがあります。
私にとって、皆さんは身近に感じる人たちです。谷川俊太郎さんの「いちねんせい」という詩を近くの小学校の入学式の時に、校長先生が引用されていたのを聞いたことがあります。野依良治さんは私の大学の3年後輩です。同窓会の時に野依ご夫妻とお会いする機会があって、ホキ美術館に肖像画が収められたか経緯をお聞きしたことがあります。
また、保木将夫さんにお会いしたくなったら、美術館に参りましょう。いろいろあすみが丘を豊かにして頂き、有難うございました。ご冥福を祈ります。