勝山 正
戦争と平和と
警戒警報発令のサイレンがけたたましく鳴り響く中、道端の鉄柱のもとに駆け足で集まって来た。今しがたまで、市電通りで戦争ゴッコをして遊んでいた、わたしたち小学生でした。ゴッコ遊びの陣地としていた架線を支えるこの鉄柱の周りで、ゴッコで競い合った戦果についてみんなと話していました。その時、コンクリートの台座に腰をかけていた子が、わたしの耳元で、それにしては みんなに聞こえよがしに、言いました。
「ゴッコ遊びでなく、早く天皇陛下や御国のためにお役に立ちたい。それまで生きていられるだろうか」と。戦時下の少国民は わたしも含めて、その深浅の差はあるにせよ、みんなこのような思いを持っていたのではないでしょうか。因みに、彼は偕行社(*1) 大阪付属の小学生でありました。 二十年三月の大阪大空襲(*2)で犠牲になってしまいました。この遊び仲間の大半も同じ犠牲になりました。
忘れもしません、あれは国民学校(*3)の卒業式を明日にひかえた空襲警報下の、三月十三日の真夜中のことでした。
圧倒的な数による、米軍爆撃機B29による大量の焼夷弾爆撃に、わが町(大阪市天王寺区)はたちまちにして火の海地獄と化して しまいました。
残念なことに、隣組の皆さんの殆んどが防空壕の中で、焼死してしまったのです。 わたしたち家族は、灼熱となった防空壕で果てるより、ここを飛び出し逃げるだけ逃げた上で力尽きても、の思いで燃えさかる街中を、 近郊の知り合いを頼っての逃避行となったのです。
行く道道でも、執拗な焼夷弾による爆撃は止まず、燃えさかる火の手で行く手を阻まれることも、?でした。道端に備えられた防火用水槽を見つけては手拭を浸し、立ち込める熱風や硝煙からの息苦しさを、凌ぎつつ逃げ続けたのですが 辺りでは、降り注ぐ焼夷弾の直撃を受け、崩れゆく人を目にすることもありました。中には幼いこどもまでもが、その犠牲となっていったのです。
手を差し伸べることもできないもどかしさを残しながら、逃げる以外に手がなかったのです。全く、凄惨極まりない光景であり、 未だに、この鮮烈な印象は焼き付けられた私の脳裏から、決して消え去ることはありません。
空が白み始めた頃に、命からがらようやくにして、逃げ果せることができました。
そして、当然のことながら、卒業式の出席は能わなかったのです。
「万死に一生を得る」という諺がありますが、それにしても、余りにも残酷で、悲惨な少年期の体験ではありました。
戦争は、多くの若者たちを戦地にかりたてました。
町では出征兵士を送る行列や、逆に、英霊となって帰還した戦死者を迎える行列が、日常的に見られる光景でした。また一方では、 空襲が激しくなり、無差別爆撃によって多くの市民が犠牲になっていました。
このように明日の命の見通しもつかない戦時下の社会状況と相俟って、戦時の偏向教育が、子供たちの思考に大いに影響をもたらしたものではないか、と思っております。
教育は、人間形成に大きな役割を果たすことは、論をまたないところです。
戦時下のわたしたちは、軍国主義や皇国史観にもとづく教育を押し付けられ思考停止へとマインドコントロールされ、軍国少年として育て上げられていたのです。
やれ八紘一宇だとか、神州不滅、一億一心、鬼畜米英、神風が吹く等々戦時スローガンのもと、滅私奉公、忠君愛国を強制されたのです。挙句の果ては、神風も吹くことなく、神州不滅とはいかなかったのです。
特に、このように、成長期における教育の重要性は、言うまでもありません。
一歩間違えて、時の為政者の独断に利用されると、間違った教育に走り大変なことになります。
至近な例では、中国における徹底した愛国・反日教育の結果、平成十六年(二〇〇四年)のアジアカップや平成二十二年(二〇一〇年)の尖閣諸島における領海侵犯事件時の日本パッシングでしよう。
北朝鮮の権力者への個人崇拝なんかも、人権をないがしろにした教育の結果であり、他にも、世界の所謂独裁国と言われる国には、同じような国状下にあるものと思われます。
偏向教育の弊害等については、いろんな場面で、世の識者からしばしば指摘されているところであります。
時は移り、敗戦でようやく戦争の恐怖から解放され、平和な生活を送れようになり、今日の繁栄となりました。
敗戦後、焼け野原と化した日本が、飢餓等のどん底から立ち上がり、相当の時を経ずして復興を成し遂げ、そして、さらなる発展をめざし遂には、世界の経済大国の地位を占めるまでになったのです。
この奇跡ともいうべき戦後復興は、世界に大いなる驚きと賞賛を博すこととなり、日本人の勤勉さと優秀さを、遍く知らしむることともなりました。
我が国は、明治二十七年(一八九四年)の日清戦争から日露戦争、第一次世界大戦、昭和二十年(一九四五年)の第二次世界大戦に至るまで、度重なる忌まわしい愚かな戦争への当事国や、参戦国となりました。
我が日本国民はこれが反省の上に立って、一から出直し平和国家の建設をとの強い決意が、この奇跡の復興を成し得た原動力となったのです。
わたし自身、今日の平和な世の中で生きる喜びや有難さが、身にしみて分かろうというのも、単なる感傷の故でなく、あの少年期のつらい体験があったればこそ、とつくづく思っております。
わたしは、昔俗に言われた人生五十年はとっくに過ぎ、還暦はおろか古希も超え、喜寿をも通り越し傘寿を迎えたのであります。
振り返って見るに、わたしたち世代は昭和十九年の学童疎開をあの戦時混乱の中体験し、また、昭和二十二年の学制改革にあの戦後混乱の中経験し、はたまた、平成二十年には悪評高い後期高齢者医療制度の不意打ちを食らったのです。
このように、時の制度改革等の激動の大波を直に被るのは、いつもわたしたちの世代であり、損なめぐり合わせと僻みたくもなり、大仰に言えば、時の政治にもてあそばれているのでは、との錯覚すら覚えるほどです。
ところで、人間誰しも加齢とともに、体力、気力、知力の衰えは否応なしにやってきます。 もう年だからと言って、老いに任せるがままの無気力な生活態度では、これらの力の衰えがますます顕著になり、取り返しのつかないことにもなり兼ねません。
ものの本によりますと、日頃から「からだ」のみならず「あたま」にも刺激を与えることが、老化を防ぐに肝要である、と指摘されております。
高齢者にはこれらの提言を、自分なりにうまく取り入れて、健康保持には常に細心の配慮を施し、向後の生活をより楽しく、生きがいのあるものにする努力が望まれるところです。
わたしに関して言えば、趣味を同じくする者たちとの同好会やサークル活動への参加、ボランティア等社会活動への参加、また、各種の公開教養講座等も受講するなどして、わたしなりに老化防止に努めているつもりです。
そして、さらには、これらの活動等を介して良い指導者や気が置けない多くの仲間にも恵まれ、お互いに切磋琢磨し自己を磨き、親睦を深めることで、生活に潤いと生きがいを得ていることも、強調しておきたいところであります。
今後とも、自己管理を徹底し、心身ともに健全でありたいもの、と思っている次第です。
「少にして学べば 則ち 壮にして為すこと有り
壮にして学べば 則ち 老いて衰えず
老いて学べば 則ち 死して朽ちず」
(江戸時代 儒学者 佐藤一齋)
(*1) 明治10年陸軍将校の修養研鑽を目的として東京に設置。
大阪、広島の偕行社には、付属中学校や小学校を経営。
(*2) 昭和20年3月13日23時57分から約3時間半。
B29爆撃機274機、焼夷弾
1733トン、被災戸数 136107戸、
被災者 501578人、死者 3987人
重軽傷者 8500人、 被害面積 210
平方キロ
(*3) 昭和16年~昭和22年までの間、小学校を改称